山野善正氏『食の豆知識 弁当』

協会では、医師や専門家による鋭い視点で捉えた、健康と食に関する様々なコラムを掲載しています。今回は、一般社団法人おいしさの科学研究所理事長の山野善正氏に、「食の豆知識 弁当」について語っていただきました。

山野 善正Yoshimasa Yamano

山野善正一般社団法人おいしさの科学研究所 理事長
滋賀県生まれ。京都大学農学部農芸化学科卒業、農学博士。
東洋製缶東洋鋼鈑綜合研究所研究員を経て、香川大学農学部食品学科講師、助教授、教授。評議員、学生部長、農学部長。退職後2005年より現職。この間、アメリカ、オランダ、オーストラリアの大学で研究。専門は食品物理学。フィルム包装食品の加熱殺菌、食品コロイド、エマルション、テクスチャーについて研究。テクスチャーの研究で、食品科学工学会賞受賞。食品企業、化粧品企業等の顧問、種々の公的委員を歴任。また、民間時代レトルトパウチ第1号“崎陽軒のパック入りシュウマイ”の開発を担当。著編書にコロイド、テクスチャー関連専門書の他に、「おいしさの科学(編著)」(朝倉書店)、「おいしさの科学事典(編著)」(朝倉書店)、「おいしさの科学がよーくわかる本」(秀和システム)、「うどん王国さぬきのおいしさ」(おいしさの科学研究所)等がある。


「食の豆知識 弁当」

弁当の始まりは明確ではない。定義そのものもはっきりしない。携帯できる食という意味から考えると、狩猟、漁労、農作業に出掛かけるのに何か食材を植物の葉などに包んで持ち歩いたことが想像される。この考え方からすると、弥生時代にすでにあったとされる粽(ちまき)はまさに携帯食で、もち米である。また、5世紀ころには、糒(ほしいい)が利用されていたらしい。糒は米を蒸して乾燥させひき割りにしたもので、必要時には同量の熱湯により戻せば飯になったのである。平安時代には屯食(とんじき)という小型の握り飯が用いられ、公家は熊野詣や鷹狩りにそれらしきものを持参したと推定される。

ちょっと飛躍するが、戦国時代になると、米と味噌を持ち歩いたことは明確である。安土桃山時代に食(じき)籠(ろう)に入れて持ち歩いたが、この携帯食が「辨當(べんとう)」と呼ばれ、今では新字の「弁当」になった。京都では花見や芝居見物などで仕出し弁当として重ねられ、彩ったり形に凹凸をつけたりして、まさに芸術品ともいえるだろう。

筆者が、ニュージーランドで開かれた国際学会に出席した時、珍しく弁当(ランチボックス)なるものが配布されたことがある。ハムのサンドイッチとミカンが一つ紙箱に入っており、日本の弁当が恋しくなったことを思い出す。

松花堂弁当は江戸時代の店の名前に由来するが、懐石料理が元になっている。芝居見物では幕間に食べたので幕の内と名付けられ、花見、紅葉狩りなどの遊山などでは重箱の3段重ねが楽しまれた。この方式は、今ではお節料理として利用されている。

明治時代に鉄道が開設され、いわゆる駅弁なるものが生まれた。駅弁のできた頃から梅干しが詰められた。これは塩味の意味があったが、保存性維持の目的もあったと思われ、その後も常用された。高校生の頃、悪友が昼前の授業中に机の上で開いた本でかくして、こっそり弁当を食べていたのが思い出されるが、今では懐かしい情景である。

また、仕事でも観光でも列車に乗って遠隔地に出掛ける時は、各地の特徴ある駅弁が楽しみであった。この駅弁の販売の形態は、鉄道の変化により紆余曲折があり、肩からひもで下げた入れ物に載せて販売していた売り子は、新幹線の日常化など列車のスピードが上がると消滅した。今では、ご当地弁当などとしてKIOSKなどで維持されているが、旅の風情を楽しむ情景が消えたのは何となく寂しい気がする。

かく言う筆者も、列車の旅ではもちろん駅弁を利用するし、多忙な時は、コンビニなどの弁当を使わせてもらっている。あまり関係ない話題で恐縮であるが、「便利」という言葉から、「もののふの矢橋の船は速けれど急がば回れ瀬田の長橋」(宗長)を思い出した。この歌の舞台は筆者の生まれ故郷の琵琶湖なのである。

(大塚薬報No.727より転載)

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